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  • 「みんなのしあわせ考え中」
    論語と算盤は一致
    しなければならない。

    渋沢栄一が事業を起こす目的は、一人だけ、一つの会社だけの利益ではありませんでした。一人だけ富んでも、国全体は豊かにならない。第一国立銀行の設立にあたっても、多くの人の利益に結びつくように株主を広く公募しました。論語を行動の規範としてきた栄一は、個人を第一とするのではなく、公共の利益を追求し、弱い者を含めた、みんなを幸せにすることを考える「道徳経済合一説」を掲げていました。

  • 「やさしい院長さん」
    見て捨てておく
    というは
    人道の上から出来ない
    訳であります。

    渋沢栄一が社会のために尽くしたのは実業だけではありませんでした。
    1872(明治5)年、東京市街地の困窮者、孤児、障害のある方などを保護する施設「養育院」が設立されました。栄一は、1874(明治7)年、34歳のときに関わりはじめ、生涯院長として院の運営や発展に取り組みました。次の一文は、新学期に際して養育院で過ごす子どもたちに一年の心構えを語った言葉です。
    「私は皆さんの父となり祖父となり曾祖父となり親権を行っていくのであるから決して恥かしくもなく、正々堂々と社会に進んで行くことが出来得る筈である」
    子どもたちが、自信を持って世の中に立てるよう、励ましています。自分や家族だけでなく、多くの人の幸福を目指した栄一らしい言葉です。

  • 「世界はともだち」
    他に対する思いやりが
    あってはじめて、
    経済協調は
    遂げ得る
    のであります。

    渋沢栄一はアメリカ、中国、インドをはじめとした各国との友好のために民間外交を行いました。
    アメリカで日本人移民の排斥運動が起きた際も、辛抱強く交渉を続けたのが栄一です。ビジネスだけでなく、国際人として世界の平和を目指した栄一の功績は、国際社会でも高く評価され、ノーベル平和賞候補に2度推薦されています。

  • 「知らない色を見つけよう」
    学ぶ事はすなわち
    行う事である。
    行う事は
    すなわち学ぶ事。

    渋沢栄一は明治の日本で世界を知っていた人物の一人です。
    1867(慶応3)年、27歳のとき、将軍名代、徳川昭武に随行して渡仏し、パリ万国博覧会を視察しました。当時の日本にはなかった欧州諸国の先進技術、社会の仕組み、経済に関する組織や制度を実際に学び、帰国後には、すぐさまそれを実践しました。学ぶ事と、行う事。その双方を繰り返す栄一の活動は、約500にものぼる会社の設立・育成につながり、日本の近代化に大きく貢献しました。

  • 「世界を読む時間」
    何人も世界的に
    眼を
    配るを要す。
    青年は特に
    しかりとす。

    渋沢栄一は、常に世界を見て物事を考えていました。
    現代でも、多くの人が「国際社会」を語りますが、開国以前の日本で若い時期を過ごした栄一にとっては、若者に対して、もっともっと世界を知って欲しいという思いがあったのかもしれません。
    栄一は「経済に国境なし」という言葉も残しています。「国と国」とで諍いをするのではなく、道義を持って知恵と技術で切磋琢磨し合って、相互に発展することでみんなが幸せになれる世界につながると考えました。

  • 「正直に答えよう」
    商業上の信用は、
    偽らざるが
    根源である。

    渋沢栄一は、嘘が嫌いな人でした。ビジネスには嘘や駆け引きが必要だという言葉に対しても、それ自体が嘘であると解き、偽らないことで生まれる信用を大切にしていました。商売に対して、卑しい、浅ましいというイメージが強かった時代に、栄一が正直な姿勢を貫いたことは、日本における商人のイメージが向上していった一つの理由なのかもしれません。

  • 「仲良しコロコロ」
    他国の利害を
    顧みない
    ということは、
    正しい道徳ではない。

    渋沢栄一は、インドの詩人タゴールと交流がありました。タゴールは、西洋諸国が自国の利益のためだけに他国に不道理な争いを仕掛けることを批判しており、この考え方は栄一も維新前から自分が考えていることと同じであると述べ、彼の国際的な活動の支援や、日印の国際交流にも尽力しました。

  • 「心にモヤモヤ」
    一人だけ富んで
    それで国は富まぬ。

    渋沢栄一が幕末に志士であったことはあまり知られていません。明治維新後、明治政府、民間においてさまざまな形で日本の近代化に尽力した栄一。個人の利益ではなく、日本という国のことを考え行動する姿勢は、幕末も、明治も、大正も、昭和も変わることなく、社会に大きな影響をもたらしました。

  • 「丸と四角と」
    人間は
    如何にまるくとも、
    何所かにかどが
    無ければ
    ならぬもの。

    渋沢栄一は温和な人物と思われることが多いですが、本人は世間が思うほど円満な人間ではないと述べています。自分が善と信じた道を妨げる者があれば、争わずに道を譲るべきではないと考えていました。

  • 「ありがとう」
    只独り
    菊の花だけは
    晩節の香あり。

    渋沢栄一は実業界を引退したのちも、社会公共事業や民間外交に尽力しました。その背景には、老いてなお成すべきことがあると考えていたからです。喜寿(77歳)のお祝いに贈られた茶室を「晩香廬」と名付けたのも、晩年になっても少しでも香りを放ちたいという想いからでした。